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みんなの住まい


みんなの住まい からの最新情報

住まいのヒストリー

「みんなの住まい」は三井不動産レジデンシャルがお送りする人と暮らしのコミュニティ・ブログ情報サイトです。「住まいのヒストリー」コーナーでは、過去の三井の物件を取り上げて日本の住宅の移り変わりをご紹介します。

「マンション」と「広さ」と




古くから集合住宅に住んでいた日本人
都心部で100m² 超のマンションも珍しくない時代になりましたが、それを生み出したものは、住まう人の強い願望でした。そんな願いに応えるためのマンションが2001年に生まれました。それまでの住宅史の中で「集合住宅」はどんな変化をとげてきたのでしょうか?
日本では、古くは平安時代から集合住宅を住まいのひとつと考えてきた歴史があります。時代劇でよく目にする長屋の風景も典型的な集合住宅のカタチのひとつ。間口3~5間、奥行き20間程度の敷地内の表通りに商店が、その奥に裏長屋と呼ばれる家が立ち並んでいました。
家とは言ってもそれは現在の一戸建てのようなものではなく水平方向に伸びた集合住宅です。「向こう三軒両隣」という5人組の考え方が根付いた環境下の集合住宅ですから、生活もご近所さんたちの協力があってのもの。水周りの共有だけでなく、衣食住の助け合いもあったことでしょう。広さが限られていた当時の住環境では、生き抜く知恵もいっしょに育まれていたようにも思えます。

大分県・豆田町に今も残る長屋式に連なる街並み 拡大

住まいの空間としては、まず土間玄関に簡単な煮炊きをするスペース(K&玄関とでもいうものでしょうか)。すぐに小上がりで、居間&ダイニング&寝室。これらの構成で、25m² 程度にひと家族が暮らしていました。明治以降に長屋の建替えが相次ぎ、いわゆるアパートが出現。関東大震災の被災の経験から鉄筋コンクリートの住宅が供給され、文化住宅という言葉も生まれました。



デジタル家電がモデルルームを変えた!?




モデルルームから時代が見えてくる
素敵な家具やインテリア小物でコーディネートされ、いつの時代も憧れのライフスタイルを華やかに飾るモデルルーム。
「具体的にマンションを買う予定がなかったけれど、近くでオープンしていたモデルルームに入ってみたらその気になった」というお客様の声を聞くこともあり、住宅販売における一番の広告塔とも言える空間であることは間違いありません。
人々の気持ちをぐっと掴むモデルルームは、まさに時代のトレンドを表現している最先端の場。ついつい華やかな雰囲気にのまれてしまいがちですが、よく見てみるとさまざまな分野の技術革新が大きく影響していることが見えてきます。キッチンやバスルームなどの住空間設備。セキュリティシステムの進化など、日進月歩で新しいものが取り入れられていきます。
生活のイメージが膨らみ、時代性を感じることのできるモデルルームは、デジタル家電の技術革新からも大きな影響を受けていました。
2006年に公開されたモデルルームでは、当然のように大画面の薄型テレビがコーディネートされている 拡大


お客様と住まいをつくる時代





お客様の声で進化する商品企画
お客様の生の声に耳を傾け、商品企画に反映させることを信条としてきた三井不動産レジデンシャル。お客様の細やかな視点、実生活に基づく声は、マンションを開発するうえではなくてはならない重要な視点です。三井不動産レジデンシャルがつくる住まいの情報誌『こんにちは』の「あなたの声が聞きたくて(1997年)」は、まさにその姿勢の象徴的なシリーズ企画でした。
マンションに住むことが都市の住まい方のスタンダードになり、より暮らしやすさ、機能性、そして自分らしさが住まいに求められるようになった90年代後半。「あなたの声が聞きたくて」の意思を受け継ぎ、21世紀に向けたよりよい住宅づくりのための組織「三井ボイス&ボイスクラブ」が新たに発足されました。男女合わせて幅広い年齢層の方たちを集めたモニター会議やアンケートなどをもとに、得られる情報の偏りをなくし、生の声をよりダイレクトに反映させた商品づくりが可能になったのです。その声を反映させ「三井のNEWスタイル’98」として発表された第一弾のパイロットモデルが『上野毛南パーク・ホームズ』でした。
当時の『こんにちは』



東急田園都市線「二子玉川」駅と東急大井町線「上野毛」駅の2つを最寄り駅とした「上野毛南パーク・ホームズ」。都心へも程近く、等々力渓谷や多摩川などの自然に恵まれた緑濃い静かな街並みの中に建つという条件のよさもパイロットモデルとして選ばれた理由のひとつといえるでしょう。
この街にふさわしく落ち着いた佇まいの建物と、毎日の生活には思いやりに溢れた細やかなプランニングをバランスよく提案した住まいとなりました。
家族構成や暮らしのスタイル、価値観や好みなどお客様ごとに異なることは当然です。しかし、そのご要望によりきめ細かくフィットできる住まいの姿をめざすために「自由度」と「機能性」をテーマとしています。
落ち着きある住宅街にふさわしいエントランス夕景


フラッグシップを創る




第一種低層住居専用地域初のパークシティ
21世紀を迎え、日本の社会は少子高齢化、晩婚化がますます進むということが歴然となりました。高齢の夫婦二人だけという家族も増える中、住宅に求められるのは、なんといっても住みやすさ。そして誰もが寛げる場所であり、安心して癒される場所であること、そんないたれりつくせりの住まいです。
そこでまずは環境。東京・世田谷区の静かな邸宅街の中の約15,900m² という広大な敷地。また、四方を道路に囲まれ隣接して建物の建つ心配がなく、そのすべてが第一種低層住居専用地域という稀有な存在の土地に「パークシティ弦巻」は誕生しました。ちなみに第一種低層住居専用地域とは、都市計画法で定められた用途地域のなかでも低層住宅の良好な環境が様々な規制によって保護された地域のことです。住宅を建てることができる土地の中で最も厳しい規制があり、住宅以外の建築物も制限されています。例えば高校以下の学校・図書館・診療所などを建てられますが、大学や専門学校、病院などは建てることができません。また、高さには10mまたは12mまでという制限があります。
全体敷地配置図拡大


ユニークな事業形式で戸建事業を本格化




お手本は、東京・杉並の「浜田山住宅」
三井不動産の戸建住宅事業に本格化をもたらすことになったのは、1970年に着工した埼玉県上尾市の「サニータウン上尾」です。
1970年といえば、誰もが忘れもしない、あの大阪万博が開催された年。大阪・吹田市の千里丘陵で「人類の進歩と調和」をテーマに、77カ国が参加して開催されました。入場者数は6421万人。シンボルタワーとなった岡本太郎作「太陽の塔」は、今なおその地にそびえ立っています。その年の流行語は「モーレツからビューティフルへ」。高度経済成長期の真っただ中で、まさにモーレツに突進しつつも、どこか、心にやすらぎを求めたい、ホッとしたいという人々の気持ちがひそんでいたといえるでしょう。
さて、「サニータウン上尾」は、その事業方式がユニークだということで、社会的な注目を集めました。「上尾方式」と呼ばれた、その主な内容は以下のようなものです。
「ハコ」のような不思議なカタチの戸建住宅 拡大


当時、拡大傾向にあった住宅市場においては、規格住宅型と高級志向型の二極化がありました。また、感度のいい30歳台の若年層が積極的に購入に動き始めていました。
そこで第1に採用したのは直前に販売されて話題になった「浜田山住宅」での経験を生かした方式です。それは、東京・杉並区浜田山の全19棟の戸建住宅で、設計を建築家の清家清氏ら10人の専門家に依頼。建売住宅といえども、1棟ごとに異なった外観を持った住宅が大評判となり、住宅雑誌に幾度となく掲載されました。中でも八角形の外観を備えた住宅は、その外観もさることながら、室内の生活導線まで考慮された家として後々まで語り継がれました。
「サニータウン上尾」も、清家氏ら、一流の建築家に設計を依頼しその知恵をいかすことで、“注文住宅と同等の”個性的な家が立ち並ぶ街が誕生したのです。歩道も整備され、ゆったりした広さで整然とした家並みが連なっている


複合開発の原点?店舗併設マンション誕生




始まったばかりだからこそ、新たな挑戦を。
いまや、都市部における住宅の基本型になった集合住宅。マンションに永住することはあたりまえのことになり、居住空間、設備・仕様、構造は、“永住すること”を前提に急速に向上していきました。
1968年に竣工した「百合ヶ丘ガーデンマンション」を始まりとする三井不動産のマンション事業は、その後、白金、目白、札幌、三田綱町へと継続。新しい事業にはさまざまな課題があった時期ではありましたが、始まったばかりだからこそ、ひとつひとつの事業に新鮮な試みをする発展期でもありました。
そのさなかに開発されることになった「原宿パーク・マンション」。この事業は、マンション事業におけるひとつのエポック・メイキングともいえる新しい挑戦であり、その後の三井不動産のマンション事業に、影響を与えた事業といえるものかも知れません。


TX開通の25年前に生まれた公園都市




25年で約25分の時間が短縮された街
2005年、東京・秋葉原から茨城・つくば間に『つくばエクスプレス(TX)』が開通し、現在、その沿線は活況を呈しています。今から四半世紀、つまり25年前の1981年、三井不動産は、後に『つくばエクスプレス』の駅のひとつとなる茨城県・守谷の地で、戸建住宅の大規模プロジェクトに着手しました。
その前年、80年に、日本の自動車生産台数は、王者アメリカを追い抜き1100万台となり、まさに「ジャパン・アズ・ナンバーワン」を謳歌。82年には、人気アニメのタイトルから「ルンルン気分」などという浮き立った言葉がはやるなど、老いも若きも、来るべき世界一の経済力を誇る日本を夢見ていました。
一方、75年以降、上昇傾向だった土地価格の影響もあって、住宅市場は停滞していました。また、住宅の量的不足が解消され、建設省による78年の「住宅需要実態調査」では住宅に困っている世帯という質問に対する理由のNO.1として「住宅が狭い」ことがあげられています。ゆったりとした広さの住まいが求められてきたといえるでしょう。
都心からは利根川を越えるとすぐに広がる「パークシティ守谷」を上空から
拡大



このような時代状況の中で、都心から40km圏の近郊住宅都市に誕生する新しい街として注目された「パークシティ守谷」。当時は関東鉄道常総線「戸頭」駅を最寄駅とし、東京までが61分、大手町へは59分かかりました。
現在の『つくばエクスプレス』は「守谷」駅からの日中の時間帯で東京へ35分、大手町へは36分。比較すると約25分も都心部への移動時間が縮まったことになります。
81年に着工した「パークシティ守谷」は、翌82年から分譲を開始。最終期の95年までに、1735区画を完成しました。この数は、民間による住宅供給戸数としては最大。茨城県下でも最大規模の宅地開発・住宅建設となりました。
開発当初、まだ建設中だったアプローチ道路


パークホームズ誕生物語




都心住宅が求められた背景
『パークホームズ』シリーズは、現在、三井不動産レジデンシャルが最も数多くお客さまにお届けしているマンションブランドです。
では、その『パークホームズ』シリーズのはじまりとはいつ頃だったのでしょうか。
それは、今から30年前・1975年のことでした。
『パークホームズ』の名を持つ物件が生まれたその時代にはどんな背景があり、それによってどんなコンセプトが考えられたのかを紐解いてみましょう。
高度経済成長期と呼ばれた1955年頃からの好景気の波によって、個人の生活水準が年毎に伸び、それは集合住宅や個人の住宅、その生活へも様々な影響を与えました。高度経済成長期の前半は「三種の神器」と名づけられた電気冷蔵庫、電気洗濯機、白黒テレビが普及。後半の70年代に入ると今度は「3C」と名づけられたカラーテレビ、カー(自家用車)、クーラーが急速に世の中に広まるとともに生活様式は多様化していきました。
左は60年前後の冷蔵庫。右は72年の車たち。どちらも現在はレトロ・アンティークなどといわれマニアの人にとっては羨望のデザインかもしれません。
1973年、第1次オイルショックが起こり、景気は冷え込みます。それまでの急速な工業化によって都市部へ通勤するサラリーマンが増加していたことから続いていた、大都市圏への人口の流入はおさまりつつあったものの、依然として都市部の住宅不足は解消されない状況にありました。また、都市近郊部へ広がりを見せた住宅需要は遠距離通勤が増えるなどの問題を新たに抱えていました。このような時代の流れの中で1975年は、大都市の住宅難などの理由もあって戸建では二世帯住宅が世の中に産声を上げたりもしています。ちなみに、カラーテレビの普及率が90%を越えた一方で、白黒テレビも48%ほど合わせて見ている人々がいる時代でした。現在の衛星放送やデジタル地上波などまったく想像もしていなかったといえるでしょう。さて、集合住宅には何が求められていたのでしょうか。

アカデミックな複合街開発




湘南らしさのための試み
自然環境、景観、文化と歴史。土地は、さまざまな条件と関わり、その関係性が土地の魅力を左右することも多々あります。
たとえば、神奈川県の湘南エリア。輝く青い海、小高い丘の美しい緑、長い歴史に磨かれた文化。独自の世界観を築き上げ、ライフスタイルを生み出してきたこの街は、常に憧れのまなざしを浴び、住んでみたい街としてもリゾート地として高く賞賛されてきました。そして、作家、音楽家、芸術家などの創作の分野で活躍する文化人をはじめ、政界・財界人たちにも愛され続けたことで、より憧憬の地として知られることとなったのです。その中でも、海を見下ろし豊かな自然が残るエリアとして知られる三浦半島のほぼ中央、葉山と横須賀にまたがる美しい景観を持つ丘の上に残されていた約188.3haにも及ぶ敷地を、三井不動産が開発することになりました。広大な土地の総合開発は通常「面開発」といわれ、学校・商業施設・公共施設などを配した街をつくることが一般的です。
緩やかに傾斜をなす街並みは海へと繋がっているような景観。晴れた日には富士山もはっきりと見える 拡大
しかし三井不動産は、海を望むこの土地を見て、自然・環境・歴史・文化と好ましい関係を築いてきた湘南ならではの特徴を色濃く出した街をつくりたいと考えました。
その想いをこめ、この街につけられた名は「湘南国際村(三井不動産のサイトへ)」。憧憬の地を、さらに魅力的に、そして個性あふれる街として次世代に受け渡すために、さまざまな新しい取り組みが試みられたのです。

地下室で暮らす?その快適の仕組み




単に住むだけではない住まい
1996年、集合住宅が年々増加し、都市における住まい方の多様化は、新たな可能性を模索する段階へ進んでいました。93年に始まった第6次マンションブームが続く中で、95年に起こった阪神・淡路大震災の影響により構造・耐震などへの関心が高まり、豊かな住まいづくりのポイントとしてある調査では「住性能」がいちばんにあげられていました。一方では、デザインという付加価値の提案からデザイナーズマンションという市場が生まれています。単に住むだけでなく、そこでの暮らしをより豊かなものにというニーズに応えるマンションが求められていました。
そして、三井不動産がそのひとつのカタチとして生み出した集合住宅が「パーク・コート浜田山」です。東京23区内でも、落ち着いた住環境が残る街として知られる、杉並区浜田山。
視覚的な効果によって建物のイメージ形成の大きな役割を果たしているウィンドウ

その街並みと調和し、集合邸宅としての秩序あるまとまりをみせ、さりげない風格を持つその姿。
“館”というコンセプトを打ち出し、閑静な住宅街にふさわしい低層3階建ての住棟配置。御影石調吹き付け仕上げ、
割肌調100角タイル、鋼板張りの異なる3種の外壁材を用い、重厚感と洗練を伝えています。さらに特徴的なのが、建物のディテールです。
“館”のイメージを決定づける瀟洒な三角屋根付のドーマウィンドウ(出窓)。
欧州の中世都市を思い起こさせる石畳の小道や広場など、建物と敷地を総合的に捉え、建物環境の創造をもテーマとして考えられていました。

「価値観を縛らない」住空間を




憧れがスタンダードに変わった超高層住宅
1990年頃まで超高層住宅に住むことは希少であり、特別な感覚があったことでしょう。時代の最先端の象徴、あるいはひとつのステイタスシンボルだったといえます。
近年、建築技術の向上、規制緩和や再開発の影響などもありタワーマンションは急増。都心のスカイラインは、個性を主張した華々しいデザインの建物が競いあうまでになりました。
日本で初めて超高層住宅が建てられたのは、
1971年の「三田綱町パーク・マンション(三井不動産レジデンシャルのサイトへ)」。「芝パーク・タワー」にも程近い、東京都港区三田にあるこの建物は、三井不動産の都心回帰を願う思いと、鹿島建設が開発した、当時最高峰の技術とを集約して建設されました。
その後のRC造・ラーメン構造の時代、そして1995年の阪神・淡路大震災などの影響も経て、超高層建築における技術革新はめざましい発展を続けてきました。一方、超高層住宅での華やかなライフスタイルは憧れからスタンダードへと変化し、新しい価値を次々と求められる時代になっていきました。
最上部の突起がスーパービームと呼ばれる梁 拡大


「パークマンション」30年目の集大成

いつの時代にも最上であること
三井不動産レジデンシャルが手掛けるマンションの最高峰である“パークマンション”。その歴史は、1960年代後半、マンションという言葉さえ耳慣れず、住宅は1~2階程度の建物が多くを占めていた時代にさかのぼります。1971年にはタワーマンション第1号としても知られることとなった「三田綱町パーク・マンション」が誕生。それから常に、先進性や個性を極めた集合住宅を創造することを追い求めてきたといえます。 そして誕生から30年、培ってきた経験を集大成し、「麻布霞町パークマンション」が2000年に完成しました。
この系譜の中で、「麻布霞町パークマンション」が貫いたコンセプトは「アーティスティック・コンフォート」。機能性や品質の高さはもちろんのこと、住まいそのものが「芸術」であるべきだという思想です。そこで極めたのは、21世紀の世界をリードする都市住宅の理想形でした。人々が、優れた絵画や音楽に触れることで、創造的な刺激やインスピレーションを受けるように、そこに住む人々に、明日へのエネルギーを与えるような住まい。
フォルムとしての美しさはもちろんのこと、自由が漂う造形美をもち、芸術的な快適さを理想とすることこそが、「アーティスティック・コンフォート」の真の狙いでした。
まるで美術館かと見まちがう荘厳かつ優美な建物外観


日本の“伝統美”を誇る暮らしがある


建築美と心地よさを創造する原点
人にも環境にも大きな影響力をもつ“集合住宅”を開発するデベロッパーとしては、ひとつひとつのプロジェクトごとに、信念、託す思いが必ず存在するものです。
そのプロジェクトが、長い歴史を幾重にも刻んできた土地で行われるものであれば、守られてきた価値を継承しつつ、“住空間”としての新しい価値、次世代に受け継がれていく不変の価値を、さらに創造することを試みるのです。土地の持つ特性を大切にしながら、時代の価値観や先端技術を取り入れた、新たな心地よい住空間を目指すこと。歴史ある街、市ヶ谷で始まったプロジェクト「パーク・コート市谷加賀町二丁目」が、大きな力を注ぎ創りだした建築美はこの動かざる理念が原動力となっていました。
歴史を物語る史跡が数多く残るこの街のなかでも、「加賀町」という名が示すとおり、建設地は、江戸時代初期に加賀藩前田家の屋敷があったという場所でした。この縁(えにし)をいかに大切にするか、この街にふさわしいものとは、そしてこの街の歴史に見合うだけの価値をどのようにつくるか、このプロジェクトの第一歩は徹底的にそれらを考えることでした。

幻想的とさえいえるエントランス外観 拡大



三井家ゆかりの土地に、普遍の価値を


三井グループの伝統を受け継いで。
現在の品川区、戸越公園付近は、江戸時代・肥後熊本藩細川家がおよそ3万坪の広大な大名下屋敷を構えていました。明治時代に入ると、三井家がこの土地を管理し、外国人接待所として知られた三井家の別邸を建築。そこには、「三井門」と呼ばれた格式のある表門が設けられていました、後に能楽堂や、世界各国から草花を集めた三井農園(戸越農園)などが造られ、そのすぐ前に続くなだらかな坂道は「三井坂」と呼ばれるようになりました。その後、昭和の時代に、戸越公園、戸越小学校の用地として一部の土地を寄贈。さらに、三井山と呼ばれていた高台の一角は住宅分譲地として販売されました。現在は、戸越公園内にある池を中心に滝や築山のある大名式の庭園が往時の姿を偲ばせてくれます。その地に残された最後の宅地。当時、「三井門」があった付近に計画されたプロジェクトが「パーク・ハイム戸越三井坂」です。さまざまな歴史があり、三井家ゆかりの土地であるこの場所に、想いをこめた住宅づくりが始まりました。


温かみのある煉瓦と割り肌タイルに対比し、コンクリートの風合いをも活かしたアーチ状のエントランス 拡大



思い出やシンボルを残していくために


土地の思い出も大切に受け継ぐこと。
住宅という動かぬ財産をつくるデベロッパーにとって、土地そのものが持つ存在価値、歴史、未来をふまえた商品開発をすることは、重要なことと考えられます。土地の持つ独自性、魅力を読み取り、お客様のニーズを重ね合わせながら住宅をつくっていくのですから、いうまでもなく、どんな場所に住宅ができるかによっても商品は左右され、変わり得るものとなるのです。2005年、さまざまな思い出と豊かな自然が残り、多くの人たちから愛されてきた場所に、その愛情を引き継ぐ形で誕生した集合住宅「志木ガーデンヒルズ」が完成しました。
東武東上線「志木」駅から徒歩8分、慶應義塾志木高等学校にかつて併設されていた同校の寮跡地。広大な緑に囲まれたこの場所は、市の自然保全重要地域に指定されており、500種類以上の植物と約50種類の野鳥が生息する地域として、市民に親しまれてきた場所でした。また、“志木の宝物”と称されるほどのこの土地は、南側に慶應義塾志木高等学校の壮大な緑のキャンパスを望む、すばらしい要素も兼ね備えていました。


慶応義塾志木高校と道路を挟み隣接した建設地。工事着工前からの豊かな緑の様子がわかる 拡大






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